心に沁みる句評 
                                   

             「俳句ロータリー」1月号評 (平成19年 現代俳句4月号より)

           饒舌を排す      宮坂静生            

俳句詩型のリズムは基本的に韻文である。
散文のリズムをいかに韻文のリズムに生かすか、自由律以後、そのような試みもあったが、それが饒舌に流れては感動を呼ばない。
感動は本来饒舌とは裏腹な寡黙なものだ。ことばを省略し、沈黙と紙一重のところにことばを立たせる。
そこに感動が生まれる。そのような俳句を読みたい。

   夕菅や框の高き柚の家      松村 操

寡黙な詩情の醸成に好感が持てる。上がり框が高い。そこに柚の素材でしかも高潔な暮らしが見えるようだ。
夕菅が咲く山中も単純にして明快な風情。句材がいささか古風なのも、そこに作者の主張がうかがえる。
あえて、饒舌な世を厭う生き方が貴重ではないか。

    木下闇老いし少年うずくまる    多田 ゆたか

「老いし少年」とは少年のまま老いてしまった自画像であろう。生きる気力を無くしたニートの少年ではない。
社会風俗詠としては後者であろうが、前者の自画像に私は迫力を感じる。いかんともし難い老い。
古風な表現を用いるならば星雲の志を抱きながらついに、実現するチャンスを掴めないまま年老いてしまったのである。
この無念さこそいつの世でも最高に実存的だ。

    鬼灯を灯す嫣然として鬼火      田川 ひろし

鬼灯が鬼火とは連想が近い。しかし、「嫣然として」が挿入されたことで、土俗性が強調された。
いうまでもなく、嫣然としてはにっこり笑うさまをいう。鬼灯はにっこり笑うようには見えない。
恨むがごとくさびしげな赤い実。それが笑うように感じられたとは、冥土幻想とでもいおうか。
この世も冥土もひとつ世界と捉えている非日常の視点が新鮮だ。

     睡蓮の咲くとき雲の動かざる      瀬川 紅司

暑い最中の雲ばかりではない。何ひとつ動きがない光景である。
暑さを表現するのに、雲を捉えたのは常套であるが、一句の広がりを暗示したかったのである。
睡蓮を愛でるような印象派風な気持の表現には空の雲を描くのは悪くない。作者の気持の優しさがわかる。

     秋の虹往き来のできぬ世をつなぐ     清治 法子

この世とあの世が「往き来」ができないとは常識的。と評して、待てよ、身内を亡くした直後などは改めて常識的な彼此の境が気になることがあると気付くのである。
私もこの一月、白寿ではあったが母を失い、こんな思いに共感できないわけではない。
虹がかの世にも懸かっており、故人も多分眺めているのかなと夢想するのが倣いである。

     自由不自由少しお洒落な草の絮      木山 杏理

私は自由かしら、それとも不自由。
軽い自己問答を交わしているとき、目の前を羽をつけ、可愛らしい脚を垂らして飛んでいく草の絮に気付いたのである。
草の絮になりたいとは思わないが、「少しお洒落な」くらいは讃えてやりたい気持の余裕が私にはある。
そんなひそやかな愉しみを愛している作者。
生きる迷いや俳句の迷いは草の絮に注目するくらいではどうにもならないわとも思いながら。

      月光を引きずり設計図の中へ       金城 照子

工事現場か建築現場を想像する。月下で設計図を見る。それだけのことであるが、
月光と設計図との対比は無限の連想を誘う。原始と近代とがぶつかるような幻想が拡がる。
そこでは「設計図」そのものも月光の持つ原始性によって揺すぶられる。
「引きずり」という土俗的な表現効果がそこにある。

       藁塚は正気失いつつありぬ        寺井 禾青

春も近くなると藁塚は性根を抜かれたようにぐったりと肩を落とす。
「正気」を失うとは表現にいささかの違和感があるが、いいたい思いは伝わる。
藁塚という卑近なものに季節の推移を捉えようとした視点がいい。
藁塚が身の回りからなくなりつつある昨今なので藁塚へ注目することには意味があろう。

      九月一日父祖よりの井戸さらひけり    諏訪ふじ江

井戸替え、井戸攫は夏の作業である。
井戸水を飲料水に使っていた頃は赤痢や疫痢など飲み水がもとで流行ったことがあった。
夏の井戸はことに清潔をむねとした。
掲句はこともあろうに二百十日の井戸攫え、古くは関東大震災の日である。
九月一日が季語。そこになにか意味があるのか定かでないが、
夏の季語井戸替えを秋にに用い、季語を無化した点が季語体系へのささやかな挑戦とみえる。

       磨き合ふ星の国から寒気団       武井夕里子

寒気団に襲われる夜はかえって天空の星が美しい。この寒さは星同士が磨き出したものとの発想が新鮮だ。
いくぶん類想感は付き纏うが、ただ寒さに耐えて寒い寒いと凡々と唱えるよりは連想に力がある。

       新米の湯気の向こうの父の貌       田村満知子 

手堅い句である。この父は亡き父ではなく、実際そこに存する父であろう。
詠われてきたテーマだけに、「向こうに」ではなく、「向こうの」に拘ってみたい気がする。
「向こうに」は現存の父。
「向こうの」は父の貌への一途な拘りが感じられるので、米作りに精魂を賭けてきた亡き父を偲んだ作とも受け取れよう。
俳句は一字の違いで生死を分ける文芸なのが不思議だ。     

        病人に嘘も労り半夏生        玉井 淳子

半夏生は夏至から十一日目、陽暦の七月二日頃。暑い頃だ。
健常者でも生き難いときなので、病人にとっては尚更。
少しでも気持を楽にする配慮から差し支えない嘘ごといい、病人を慰めたのだ。「労り」がいい。
「嘘の方便」などといったら実感から遠い。表現の細部はしっかり詰めないと句が顕ってこない。

      つかふたびふくらむ辞書や涼新た    松本よし子

使い込んだ辞典だ。こんなことでも俳句の詩情が幽かに感じられるという見本のような作。
「涼新た」と置いた季語の力によって、晩夏が過ぎ、いよいよ秋を迎え、作句に力が入っているのであろう。
このようなささやかな思いを大事にする心遣いの積み重ねが人の暮らしである。
季語の力は侮れない。

 

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この句評文をパソコンに打ち込むとき
句読点の息継ぎに宮坂先生の息遣いが感じられて 一字一句に込められた教えを心に刻みました。
しかし、やんぬるかな!
わが鈍くなった頭脳は右から左へ忘れてしまう(-_-;) 
で、日々右から右から繰り返し頭に入れて行こうと、このページを作りました。
そしてまた、少しでも多くの方に感銘を味わって頂けたら、と思います。


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