「伊達の生首」 (平成24年4月21日愛媛県現代俳句協会総会の選評から)
松本よし乃
初時雨伊達生首の旗印 相原左義長
揚句は平成23年11月6日に愛媛県現代俳句協会が宇和島地方へ遊吟した折りの「親睦吟行会」の特選句である。
「伊達の生首」とは、宇和島市立伊達博物館所蔵・松根家の旗印「松根の生首」のことを指す。
吟行句の選をする際、一読して左義長先生の作だと確信した。季語の働きが気宇壮大を感じさせたのだ。
当日は薄ら寒い雨、私も博物館でこの旗印を見たが、”こんなもの俳句にはならんわい”と思ったから、左義長先生の句力に圧倒されたわけで・・・。
見抜いた私の選句力は我ながら大した進歩だと自惚れている。
松根家は宇和島藩伊達家の重臣のお家柄で、俳人・松根東洋城の祖父の松根図書は城代家老を務め、東洋城の母は宇和島藩8代藩主・伊達宗城の次女である。
わが祖先(おや)は奥の最上や天の川 東洋城
とあるように先祖が出羽の国・最上藩にいたころに「生首」の伝説は始まる。
剛勇で知られた先祖の松根新八郎が、幽霊から頼まれて仇討ちの助力をした。
ある夜、新八郎が城下を歩いていると鬼火がチラチラして幽霊が現れ、「ここは私の仇の家だが、お札が貼ってあって入れない。札を剥がしてもらえないか」と頼まれて剥がしてやったところ
幽霊は侍の姿になり、喜んで家の中へ飛び込んで行き、やがて血の滴る生首を下げて出て来た。
侍の幽霊は「何もお礼をするものがないから、これを」と、その生首を新八郎に渡したというのである。
松根家ではこれを邸内の竹薮に懇ろに葬った。
以来、生首の絵を家の旗印(畳1畳半の大きさ)とし、兜の前立ての飾りにもした。
現在この「首」は宇和島市金剛山大隆寺に移され「松根首塚」として供養が続けられている。
最上から仙台、宇和島と「生首」は髑髏となってからも松根家とともに遠い旅をしたようだ。
松根家の墓所も大隆寺にあり、東京・築地で生まれた東洋城もここに眠っている。山門の横に「黛を濃うせよ草は芳しき」の美麗な石の句碑がある。
東洋城という俳号は本名の豊次郎をもじったと聞くと、なんだか親近感が湧いて墓所の前を通る時は頭を下げる。
ちなみに、伊達政宗公のご生母は出羽最上藩のお姫様であり、宇和島藩初代藩主・伊達秀宗公は政宗公の長子である。
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