黒部の山賊
黒部源流の山々を巡る縦走の最終日、三俣山荘を出発したのは霧の中だった。
富山側から入山して薬師岳、高天原、雲の平、鷲羽岳と快晴に恵まれた。
中でも薬師沢小屋からB沢出合までの黒部川の川原伝いは、夢のような散策であった。
トリカブトの花が風に揺れ、ベニバナイチゴの実は真紅の宝石、
岩石は白く日を照り返し、透き通った水は青く白く奔り、小さな蝶が私の肩で羽を休めた。
大岩を乗り越す難所があり、登りのロープが反対側に投げられていて見えず
リーダーが素手で登った時は一巻の終りかと思った。
さすがのリーダーもその夜、取り付いた岩場から淵へ落ち込んだ夢を見たそうである。
水は雲の平のキャンプ場の水が飛び上がる位冷たくて美味しかった。
水筒満杯にしてノロノロ登っていたら、後から来た人に「温泉疲れですか」と冷やかされた。
前夜入った高天原温泉の匂いがプンプンするという。
水晶岳から上った月を仰ぎながらの野天風呂は、夜目にも白く香り高いお湯だった。
三俣山荘から巻き道はお花畑の中を行く。
霧の中で見るコバイケイソウは美しい。乳白色の灯のようである。
鏡平を過ぎた頃には日も差して来た。
菅笠のオジサンに出会ったのはシシウドが原だった。
撮影のスタッフの青年たちが汗だくで休んでいるのに、オジサンは涼しい顔して声を掛けて来た。
「ゆうべは何処泊りだったね」「三俣山荘です」
「そうかい、食事は良かったかい?」「良かったですよ、お肉も出たし」
「今夜は新穂高温泉かね。宿はきめてあるんかい」「いいえ」
「じゃあ、橋を渡って左側の中崎山荘へ行くと良いよ」
「鬼窪さんが言ったと言えば良いよ」最後尾の青年の言葉を背中で聞いた。
鬼窪?まさか!「鬼窪さん?あの鬼窪善一郎さん?」
私は駆け戻って握手を求めていた。「ゆうべ三俣山荘で本を読みました」
山荘の書棚にオーナーの著書を見つけて、魅せられてしまっていたのだ。
「伊藤さんの書いた本だろ?あれ、『黒部の山賊』っていうんだ」
ちょっと得意げに鬼窪さんは笑った。
大活躍の主人公の一人が、本から抜け出て私の手を握っていた。
戦前から黒部源流のけもの道を駆け回った猛者は、
どう見ても八十歳とは思えず、その手は若くしなやかだった。
この手で数多くの熊を仕止めたのだと、私は強く握り締めていた。
(写真は鷲羽岳 正面の奥に槍ヶ岳が見えています)
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